バゲットの進捗

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今年の春から、週末になるたびバゲットを焼いている。藤森二郎さんのレシピ本を参考にアレンジを加えたら、だいぶ安定して好みのバゲットを焼けるようになった。最近は、次の分量・次の工程でバゲットを焼いている。

分量(3本分)

  • 小麦粉 375g
  • 水 230g
  • 塩 7g
  • 砂糖 6g
  • イースト 3g

工程

  1. 水以外の材料をボウルにいれて、よくヘラで混ぜる。
  2. 少しずつ水を入れながら、ニーダー付きのハンドミキサーで混ぜ合わせる。
  3. 生地に水が染みこんだら、手で捏ねて、ひとまとまりの生地にする。
  4. 生地がボソボソしていたら、再度ニーダー付きのミキサーで捏ねる。
  5. 生地が均質になって、肌理が整ってきたら、丸めてボウルにいれ、ラップして冷蔵庫に入れ、一晩放置。ここまで、寝る前にやっておく。
  6. 翌朝、生地を3等分する。およそ600gの生地ができてるので、200gずつスキッパーで分ける。
  7. 分割した生地を、枕型に整形して20分のベンチタイム。
  8. 休ませた生地を、細長の円筒状に整形して60分の二次発酵。この段階で、余った打ち粉を化粧粉としてふりかけてしまう。下の写真は、二次発酵後にクープを入れた段階のもの。
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  9. 二次発酵が45-50分終わった段階で、オーブンの予熱を始める。焼き上がりまで250度をキープ。我が家のガスオーブンにはスチームがないので、下段に熱湯を張ったバットを置いている。鉄板もあらかじめ入れておく。
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  10. 二次発酵が終わったら、カミソリでクープを入れ、鉄板にのせて焼き始める。カミソリは、ダイソーなんかで売っている薄刃の両刃カミソリがいい。
  11. 250度のまま25分焼く。我が家のオーブンは、熱源が下にあり、上面が焼けにくい。なので焼き始めから12分で、パン生地を軍手でつかみ、天地を返している。
  12. 焼き上がり。上の写真のような状態になる。ここまで起床から2時間弱。うまい。

なにはともあれ、まずは藤森さんの本を読んだほうがいいと思う。Amazon プライム会員ならただで読める。おすすめだ。

ちなみに本書によれば、僕が作っているバゲットは太短いのでバタールだ。長細いフランスパンをバゲットと呼ぶらしい。

橋と箸

びっくりした。

余暇を使って東京ミッドタウンアワード2017のデザイン部門に応募していたのだが、今回の入賞作と、自分たちの提出案が、かなり接近していたのだ。

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テーマは東京だった。あいにく自分は東京に住んだことがない。東京へ行くためには、幾つも橋を越えなければならなかった。そして着いた先にも、日本橋万世橋といった具合に、必ず橋があった。東京は橋の町だ。そんな記憶が元にあって、橋を箸置きにするアイデアが生まれた。箸置きは道具であって玩具のような愛嬌があるから、自分に適した題材だと思った。

これを妻に話すと、ことのほか面白がってくれた。そこで2人でプレゼンシートを作ることにした。6月から7月にかけて、週末になるたび東京の橋梁をリサーチしたり、3Dプリンタを使って強度あるデフォルメを検討したりして過ごした。一緒に何かをつくるのは結婚式の招待状以来で、最初はギクシャクしていたけれど、お互いのリズムがつかめるようになると、作業にもグルーヴ感がでてきた。

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材質と工法を決めるにあたっては、陶器に絵付けをする、真鍮をロウ付けしてトラスを組む、という案もあった。最終的に木の積層を選んだのは、個性豊かな橋の構造を、線と面の両方を使って、強く美しく立体化できると考えたからだ。目指したのは、暮らせる模型。これなら箸や箸置きを使わない文化圏の人でも、旅の思い出に1つ買って帰れるだろうと考えた。

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そして7月の中旬に、上記のレンダリングをもとに、プレゼンシートを作成してシンガポールから郵送した。結果を楽しみにしていたが、僕らに朗報は届かなかった。まぁ、そんなこともあるよね。今度は他の町の橋でも作ってみたいね、なんて話をしていた。それからしばらくたった10月13日の金曜日。インターネットで結果を見て、思わず2人で仰天してしまった。

こんなことってあるのか・・・。その週末は、取るものも手につかなかった。それでも、新しいことにチャレンジできたし(Keyshotが使えるようになった)、クリエイティブな課題に夫婦で取り組めたのは楽しかった。至らない部分を省みつつ、今後もデザインの研鑽に励もうと思う。

  

修士のころ

研究所で勤務していると、普段はあまり学生との接点がない。学会や展示などにでかけて、ようやく彼らと話す機会がある。自分はもう36歳なので、修士の学生とも干支で一回り以上も違う。自分の研究や作品を堂々と発表する彼らを見ると、エネルギッシュだなぁ、クレバーだなぁ、と素朴に感動してしまう。

一方で、こうしたイベントに現れる学生は、氷山の一角に過ぎないということも知っている。多くの学生たちは、大学院で悶々としながら、うだつの上がらない日々を送っているのだろう。そうした想像がつくのは、自分がそういう学生だったからだ。

サボってるわけではない。むしろ頑張っている。でもパッとしない。一方で、同級生が偉い人に認められたり、金回りが良くなったりして、賑やかに暮らしている。そんな彼らがうまくいってる理由が、ちっとも理解できない*1。彼らへの妬みなのか、自分への僻みなのか、心は鬱屈した思いで溢れていた。

そんな頃に、僕はよくThe Smithsの曲を聴いていた。きっかけは、社会人を経て大学院にやってきた年上の友人が、スミスの熱心なファンだったから。最初は歌謡曲みたいで苦手だったけど、歌詞を読むようになってハマった。たとえばこんな感じだ。

【意訳】就活して、やっと仕事が見つかった。でも情けないよね。僕の人生なんか気にも止めない連中のために、貴重な時間を使うんだから。

スミスの歌詞は、自分のモヤモヤとした気持ちを、わかりやすい言葉で代弁してくれた。世の中には自分と同じような人がいる。それがわかると、少しだけ心にゆとりがでてきて、何かをする気力も湧いてきた。その気力で何をしたかというと、書写だ。興味を惹く本を図書館で見つけては、気になる箇所をノートに書き写していた。

えてして優秀な人は、最初から優秀だったわけではなく、それなりの資本をかけて優秀になるわけだ。金持ちの子は、親の財布で本が買える。インテリの子は、そもそも家に本がある。早熟の秀才は、奨学金が使える。そうじゃない人は、どうしよう?

ちょうどタイとカンボジアバックパック旅行した後だった。世界で一番有名なバックパッカーと言えば、三蔵法師だ。彼はインドまで旅をして、ブッダの教えをメモして持ち帰り、現代まで語り継がれるヒーローになった。だったら、その三蔵法師に、自分は倣おうと思った。幸い、インドまで行かなくても図書館には歩いていけるし、誰に見せるわけじゃないから、走り書きで良い。そんなわけで学期中は大学の図書館で、長期休暇は実家の近くの県立図書館で本を借りては、知らなかったことをメモしていった。

これは修士2年の頃、夏期講習のバイトの休憩時間に読んでいた空間学事典のメモだ。建築系の本なので、自分の研究とは直接関係ない内容だ。

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母校が総合大学だったのは幸いだった。他の学部からも本が取り寄せられたので、自分の学部の偏った知識を補うことができた。良い本を教えてくれる先生や先輩に恵まれたのも有り難かった。彼らが研究室や作業場に置いた本を、夜のうちにこっそり読ませてもらったりもした。

今にして思えば遠回りなやり方だったかもしれないし、ただの現実逃避だったのかもしれない。修士課程の2年は、あまりに短い。はやる気持ちを感じない日はなかった。だけど、自分の考えた方法で、知らないを知っているに変えていく作業をしている間は、昨日の自分より成長した自分が感じられて、焦燥感から自由でいられた。

こうやって読書と書写を繰り返していると、ある程度のところで本に書いてある知識に飽き、どこか物足りなさを感じるようになった。もっと先が知りたいし、誰もやってないものを作りたいと、強く欲するようになった。これが、自分の中に初めて湧いた、本当の創意だったと思う。自分は面白いものが好きだ。人に喜ばしいものを作ろう、という思いが当然としてある。その上で「誰になんと言われようと、自分が欲しいと思うから、必要だと感じるから作るんだ」という意固地さが生まれた瞬間だ。社会とのズレから生まれた僻みが消えた瞬間でもある。ただ、そこに辿り着いた時には、修士課程も終盤に差し掛かっていた。

【意訳】歌おうよ、自分のことを。誰だってやってるよ。マイクに向かって、名前を言って、好きなこと嫌いなことを歌うんだ。

結局、自分は修士を終えるまで、一度たりとも学会で発表することがなかった。スミスのせいで就職への意欲も湧かなかった。優秀な後輩がいなかったら、プロジェクトも収束できなかっただろう。僕の修士課程は不完全燃焼で終わった。それでも、ひとつの信念が芽生えたのはよかった。そのおかげで、今でも創作が続けられているのだから。

  

*1:いや、理解はできた。彼らは社会が求めるものを生み出していた。だけどそれは、自分が面白いと思うものから、遠く離れていた。つまり当時の自分は、自分と社会とのズレに、腑に落ちなさを感じていたのだ。まるで「日陰者」の烙印を押されたような気がしていた。