珍道具へと導かれないために

自分は公私ともにScrapboxを愛用している。そのScrapboxの発明者の増井先生は、自身の専門であるユーザインタフェース研究について批判的なエッセイを幾つも書いている。

ユーザインタフェースの研究を行なってる人達が、これまでのユーザインタフェース関連の研究結果をほとんど常用していないのであれば、ユーザインタフェースの研究など全く無価値なのではないかと思ってしまう。

ユーザインタフェース研究の意義 - 増井俊之

シンプルで使いやすい洗練された新インタフェースができても業者がちょっと工夫したあたりまえなものだと思われる可能性が高いのではないだろうか。一旦あたりまえだと思われたら、それがいくら新しくて便利で画期的なものであっても、愚かな査読者は「あたりまえじゃん」と思ってリジェクトしてしまう。査読でリジェクトされたら論文にならないから、シンプルで洗練されたものを作る人間は論文の数が少なく、研究者と認識されていない可能性すらある。

あたりまえインタフェース - 増井俊之

大学や研究所で面白いものが発明されることはタマにあるが、ユーザインタフェースの学会で論文として発表されたものがその後流行することは無いというのが実情なのだろう。実際、論文として発表された後世間で利用されているシステムなどほとんど無い。そうだとすると、ユーザインタフェースの学会の存在意義はどこに有るのだろう?

論文として発表されたインタフェースシステムが流行ることはない - 増井俊之

目新しいものを作ってユーザ評価したョと称する様々な論文が毎年発表されるのだが、実用性が激しく疑問なものが大杉で、お前はそれを自分で使ってるのかと問い詰めたくなるようなものがほとんどである。

自分が使わないものを発表するな - 増井俊之

ユーザインタフェースに関する研究は、珍道具が考案されやすい。自分もその経験がある。珍道具とは、ミクロな問題を解決するために、マクロとして理不尽なデザインが施され、結果として実用に耐えない道具を指す。Chindōguとして英語にもなっている。マウスの発明者、ダグラス・エンゲルバート流にBrick Pencilと言ってもいい。

wired.jp

誰だって珍道具は大真面目には作りたくない(はずだ)。しかし学会では例年多くの珍道具が発表される。確かに新しい。でも、いつ、どこで、誰が、本当に使うのだろう?

ひょっとするとユーザインタフェースを「研究」にしてしまうことが、道を誤らせるのかもしれない。ハッカーと画家の著者、ポール・グレアムはこう書いている。

デザインは必ずしも新しくある必要はないが、良くなくてはならない。 リサーチは必ずしも良くある必要はないが、新しくなくてはならない。

Design and Research

彼が言うように、「研究=実用の良し悪しから切り離された行為」なのだとすれば、珍道具を作ることも思弁的な価値があるのだろう。つまり思索のための試作であって、思考実験のための道具としてプロトタイプがある。ここでの研究は、西堀栄三郎のいう基礎研究であり、応用研究ではない。

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基礎研究である自然科学に対して、応用研究であるはずの計算機科学を、再度基礎研究的に取り組んで良いのか?という疑問もあるが、世界的な趨勢なのだ、ここでは深入りしないでおこう。

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実際的な問題として、基礎研究ではなく応用研究としてユーザインタフェースの発明に取り組むことは可能だろうか。西堀の分類に従えば、応用研究のアウトプット先は特許になる。特許は学会発表よりコストがかかるので、大学のように資金力のない組織には厳しい。だとすれば、応用に主軸をおいた学会があってもいいのではないだろうか。そのほうが、いずれ実務家となる学生を教育する上でも、素直だと思うのだが*1

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*1:国内学会ならあるのかもしれない。教えて欲しい。