問題がなくても問題ない

僕は電子遊具(ガジェット)を作っている。なので、見て、触って、面白い!と感じられるものが作りたい。ジャンルとしてはエンターテイメントで、テレビ番組やアニメ、漫画やゲームなんかと近いものを作ってる認識だ。
 
新しいガジェットを作るときは、これまでにない面白さを発見して提案する必要があるし、技術的な課題を解決する必要もある。そういう意味で、ガジェットの新規開発はアート的でもあるし、デザイン的でもある。
 

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アートとデザインの違いはわかりやすい。クリシェだけど、アートは問題を提起し、デザインは問題を解決するものだ。ただ、ここにエンターテイメントを加えると、こじれてくる。なぜなら、エンターテイメントは問題をもたないからだ。
 

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そうしたエンターテイメントの「問題のなさ」に、引け目を感じるときもあった。大人が取り組むには、真剣味に欠けるのかなぁと思うこともあった。だけど、問題がないからこそ、たまの休みを安らかに過ごせるのだし、娯楽で仕事の憂さが晴らせるのだ。
 
エンターテイメントは問題がなくても問題ない。ノープロブレムだ。むしろ、遊びがあるかないか、それが問題だ。

レクサスは、まぁあかん

10月の初旬に、ちょっとしたガジェットのアイデアが思いついた。たまたまレクサスのデザインコンペ「Lexus Design Award 2017」の締切が1週間後だったので、ハッカソン的な勢いでプロトタイプを作って、応募することにした。審査員に伊東豊雄氏がいること(お会いしてみたい!)、100万円の制作費をもらってミラノサローネに出展できるのが、コンペの魅力だった。
 応募資料には、文章と静止画が必須で、任意で映像を添えることができた。その際は、YouTubeないしVimeoにアップロードし、URLを投稿フォームに記載することになっていた。僕は、人が使うもの・動くものを作っているから、映像での説明が欠かせないと思っている。例えばキャタピーのようなものの挙動を、明確に伝える手段は映像しかない。というわけで、いつものように一人で映像を撮って、YouTubeに限定公開でアップして、投稿資料に加えた。
 
それから3ヶ月ほどたって、結果が公表された。僕の案は、あえなく落選した。残念だけど、当落は審査員が決めるもの、コンペとはそういうものだし、異論はない。その一方で、興味深いことがわかった。YouTubeの投稿者は、自分の動画がいつ・どこで・どのように再生されたかを解析することができる。そのおかげで、僕の映像資料は一度も再生されずに落選したと判明した。
 
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上の画像は該当映像のアクセス解析グラフだ。実際には2回だけ再生されている。1回は、アップロード日に自分がシンガポールから。もう1回は審査後の2017年1月に友人が東京から。ファイナリスト審査会は2016年11月18日とアナウンスされている。仮に審査員が映像をチェックしたのであれば、10月から11月にかけてなんらかのアクセス履歴があるはずだ。
 
すると、いろいろな疑問が湧いてくる。YouTubeにはアクセス履歴が残らないように動画を視聴する方法があるのだろうか?審査員は映像を判断材料にしなかったのだろうか?審査員による最終選考の前に、誰かが足切りや露払いをしたのだろうか?だとすれば、誰が、どういう評価基準で?
 
それらを詮索する気も、僕にはない。ただ、なんだかなぁという不満と、Lexus Design Awardって資料を精査してくれないんだなぁという虚しさは残った。年末の特番で、マツコ・デラックスに嬉々として工場を案内する豊田章夫社長を見て、トヨタってくだけた会社だなぁと思ったんだけど、そうした気持ちも砕けてしまった。
 
レクサスはまぁあかんな。おまんたはミラノに行っとらんで、イタリアンでも食べとりゃぁええわ。来年はちゃんとまわしとかなかんぞ!

未来の飯は、今より絶対に美味い

週末に実写版の攻殻機動隊を見た。酷評する友人も多いけど、僕はけっこう楽しめた。押井版のシリアスさを残しつつも、SACほどはポップでもなく、全体的に一見さんにも優しい映画になったと思う。劇伴音楽は抑制が効いてて特にカッコよかった。比較対象としてふさわしいかは別として、リメイクとしてはシン・ゴジラより満足できた。

一方、今回の観劇をきっかけにしてSFに登場する飯ってマズそうだな、という思いが強くなった。サイバーパンク映画は往々にして、人間と建築が過密で、道路と空気の汚いアジアの街が登場する。そういう街で食べられるのは、粗末な虚構のエスニック料理だ。合成肉や深海魚が食材として使われることも多々あるし、白人や黒人が慣れないチョップスティックでヌードルを啜ったりする。最悪な場合だと、今でいう完全食みたいな、ゲロ風の流動食を食べてたりする。

しかし、アジアに住まう酒飲みの僕からすれば、サイバーパンクに登場するような街こそ、安くて美味いものの宝庫なのだ。バトーが犬用の肉を買った街なら、コンビニで買ったビールを屋台に持ち込んで、中華ソーセージ入りの炊き込み御飯と、柔らかく煮込んだハチノスをつまんで、2時間くらいウダウダできそうだ。バンコクだってソウルだってハノイだって、それこそトーキョーだろうがオサカだろうが、不潔で猥雑なのに値段以上の口福が得られるのが、サイバーパンクのモデルとなる街だ。そして今を生きるバイタリティで溢れている街だ。そこには二日酔いの朝に白粥をすするオッさんはいても、時間が足りないとゲロをすする味音痴はいない。ひどいのは、重慶大厦(チョンキンマンション)のような劣悪な住環境だ。

そういう街を舞台にして、なんであんなに悲愴な未来が描けるのか、ちょっと不思議に思えてしまう。英米ギークな価値観でアジアの都市を眺めると、ああいう風に見えてしまうのだろうか?だとしたら、彼らが気の毒である。僕らは欧米の高級レストランに行っても、便器みたいな質感の食器つかってるなぁとか、口に出しはしないのに。

ところで、そもそも美味しそうなSF飯というのはあっただろうか?僕が思いつくのは、ドラえもんの箱庭シリーズ・赤松山だ。スモールライトで入山すると、そこには見渡す限りの松茸が生えている。のび太たちが思う存分、採れたて・焼きたての松茸を味わっているのをみて、子供ながらに垂涎したものだ。ほかにも、ドラえもんには美味しそうな食事シーンが多数登場する藤子不二雄作品が、未来を描きながらも人間味に溢れているのは、F先生もA先生も食べ物への並ならぬ執着があったからだろう。

飲み師匠の加賀谷さんが、「徳川の殿様より、俺たちの方が美味しいものを食べてる」と仰ったのを思い出す。ン十年前の名著・壇流クッキングのレシピより、クックパッドの人気レシピのほうが美味しかったりするくらいだ。昔より今のほうが、味はずっと複雑で、飯は遥かに美味しいんだろう。

だから思う。昆虫や合成肉を食べる未来より、電気が味覚を代替する未来より、今よりも美味しく健康的な飯の食える未来が、確実にやってくる。息苦しいカプセルベッドではなく、誰だってふかふかの布団で眠れる未来がやってくる。そうじゃなきゃ、生きる張り合いも、未来を創る甲斐もない。