烏賊のゾートロープ

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新しいカメラが欲しい。そう思っていたら、友人が愛用していたCanonEOS 5D Mk2を譲ってくれることになった。ありがたいことだ。8年の使用に耐え、チェルノブイリにすら行ったらしいそのカメラは、其処此処に古傷があって、自慢できるくらい貫禄がある。機能はもちろん現役で、雰囲気たっぷりの写真がちゃんと撮れる。
 
考えてみれば、父や母が、子供の僕を撮ってくれた写真は、どれも35mmのフィルムカメラだった。だからフルサイズのセンサーで撮った写真は、フィルターなんかかけなくても、正方形に切り取らなくても、中年の情緒を揺さぶってくる。
 
新しい古いカメラを持って、佐賀を旅した。7年前に買った、安い50mmのレンズしか持ってなかったから、広い景色が撮れず、妻ばかり撮っていた。そんななかで上の写真は例外的な一枚だ。実際はこんな風に回転していた。まるでゾートロープのようだった。
 
 

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意識から消えないもの

僕は遊具ばかりを作って、あまり道具は作らない。道具のデザイナーは、使い手の意識から消えるのが良い道具、みたいなことを時々言う。とりわけデジタルよりのデザイナーに顕著だと思う*1

遊具の場合はどうだろう。例えばけん玉で遊んでいて、けん玉を意識しなくなることはなんてあるんだろうか。ゲームで遊んでいてゲームを忘れることは?楽しさに我を忘れることはあっても、つまり時間感覚が狂うことがあっても、遊具に対する意識は消えないと思う。

翻って道具の場合はどうだろう?僕はベトナムで買った茶碗でご飯を食べるのが好きだ。気に入った形や手触りの茶碗で食べると、紙皿やダイソーの108円陶器で食べるより、ずっと満足できるからだ。そのとき僕は、道具への意識が無いとは思わない。僕にとって良い道具とは、意識したい道具だ。

道具は使い手の意識から消えるべき、これは謙虚なデザイナーの心の現れであって、デザインの実際ではないのかもしれない。良い道具は、芸術と変わることなく受け止められる。遊具もまた、そうなりえるのではないだろうか。

*1:この点については「メディアは透明になるべきか」という本に詳しい。

器官と時間

ここ数年のゲーム開発者との協働によって得たものの1つが、ゲームデザイナーへの正しい理解だ。僕は長い間、ゲームデザイナー=ゲーム中のグラフィックやサウンドをデザインする人、と勘違いしていた。実はそれはゲームアーティストの仕事だった。ゲームデザイナーは、ゲームをゲームらしくする仕事をしている。つまりルールを考え、プレイ時間や敵の強さを調整し、ゲームを面白く設計するのが彼らの役割だ。

デザインには、意匠と設計の二つの意味があるけれど、ゲームデザイナーはかなり設計よりのデザイナーだと思う。視覚や聴覚など感覚器官を刺戟するのが意匠よりのデザインだとすれば、遊んだり使ったりするときの時間感覚を刺戟するのが設計よりのデザインなのかもしれない。

いや、むしろデザインは器官と時間で捉えたほうが、多くの活動をデザインとして扱えるのではなかろうか?たとえば食事や遊びなんかは、意匠と設計より、器官と時間のほうが勝手がいい。この尺度を手に入れてから、もっとデザインが楽しくなった気がする。