人生ゲーム

子供の頃は、凄い人や、偉い人と同じ視点に立てたらいいな、と思う事が多かった。努めてそうしていた気もする。まるで山を登るような気分だった。山頂を目指すこと、多くの山に登ることが素晴らしいと思っていた。山にいるだけで、なんか楽しかった。そして同じ山を登らない人が、いまいち理解できなかった。

 大人になるにつれ、人間関係が広がってくると、同じ山を登らない人とも一緒に何かすることが増えてきた。趣味に合わない映画を見ると疲れるように、感性や価値観の違う人と一緒にいると、それだけで疲弊するものだ。まず上手くいかない。ただ失敗をいくつか重ねると、疲れにも慣れるし、付き合いの塩梅もわかってくる。

すると、同じ山を登っていると思ってきた人たちとの間にも、明確な違いがあることに気づくようになった。つまるところ、自分と同じ山を登ってる人は、自分だけなのだ。この発見は、孤独や孤高というほどロマンチックじゃなかった。うすうす気づいてたけど、やっぱりそうだったのか。そんな、納得に近かった。むしろ今の人生は、山というより海なのかもしれない。浅い深いはあるけれど、高い低いはないからだ。

たぶん人生には、山ステージもあれば、海ステージもあるのだ。砂漠面もあれば、闇世界だってあるのだろう。それはまるでゲームのように。

烏賊のゾートロープ

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新しいカメラが欲しい。そう思っていたら、友人が愛用していたCanonEOS 5D Mk2を譲ってくれることになった。ありがたいことだ。8年の使用に耐え、チェルノブイリにすら行ったらしいそのカメラは、其処此処に古傷があって、自慢できるくらい貫禄がある。機能はもちろん現役で、雰囲気たっぷりの写真がちゃんと撮れる。
 
考えてみれば、父や母が、子供の僕を撮ってくれた写真は、どれも35mmのフィルムカメラだった。だからフルサイズのセンサーで撮った写真は、フィルターなんかかけなくても、正方形に切り取らなくても、中年の情緒を揺さぶってくる。
 
新しい古いカメラを持って、佐賀を旅した。7年前に買った、安い50mmのレンズしか持ってなかったから、広い景色が撮れず、妻ばかり撮っていた。そんななかで上の写真は例外的な一枚だ。実際はこんな風に回転していた。まるでゾートロープのようだった。
 
 

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意識から消えないもの

僕は遊具ばかりを作って、あまり道具は作らない。道具のデザイナーは、使い手の意識から消えるのが良い道具、みたいなことを時々言う。とりわけデジタルよりのデザイナーに顕著だと思う*1

遊具の場合はどうだろう。例えばけん玉で遊んでいて、けん玉を意識しなくなることはなんてあるんだろうか。ゲームで遊んでいてゲームを忘れることは?楽しさに我を忘れることはあっても、つまり時間感覚が狂うことがあっても、遊具に対する意識は消えないと思う。

翻って道具の場合はどうだろう?僕はベトナムで買った茶碗でご飯を食べるのが好きだ。気に入った形や手触りの茶碗で食べると、紙皿やダイソーの108円陶器で食べるより、ずっと満足できるからだ。そのとき僕は、道具への意識が無いとは思わない。僕にとって良い道具とは、意識したい道具だ。

道具は使い手の意識から消えるべき、これは謙虚なデザイナーの心の現れであって、デザインの実際ではないのかもしれない。良い道具は、芸術と変わることなく受け止められる。遊具もまた、そうなりえるのではないだろうか。

*1:この点については「メディアは透明になるべきか」という本に詳しい。