一撃

好きなものは繋がっている。「へうげもの」がきっかけで陶芸が好きになり、茶碗を見に出光美術館へ行ったら仙厓の絵が好きになり、仙厓の絵を見に府中美術館へ行ったのが、4年前の今日だ。

今週、久々に仙厓を主人公にした歴史小説を読み返したら、「一撃忘所知」という禅話が胸に刺さった。音の一撃によって長年の迷いが開けたというエピソードで、詳しくはこのページの通り。

禅の指南は、悩む→悟るを繰り返して、人間を成長させる。閃きは一瞬。自分たちの仕事にも通じるような気がして、面白く感じられた。

最後に、ここ数ヶ月の間に自分が一撃を感じた作品をリストしておきます。

人生ゲーム

子供の頃は、凄い人や、偉い人と同じ視点に立てたらいいな、と思う事が多かった。努めてそうしていた気もする。まるで山を登るような気分だった。山頂を目指すこと、多くの山に登ることが素晴らしいと思っていた。山にいるだけで、なんか楽しかった。そして同じ山を登らない人が、いまいち理解できなかった。

 大人になるにつれ、人間関係が広がってくると、同じ山を登らない人とも一緒に何かすることが増えてきた。趣味に合わない映画を見ると疲れるように、感性や価値観の違う人と一緒にいると、それだけで疲弊するものだ。まず上手くいかない。ただ失敗をいくつか重ねると、疲れにも慣れるし、付き合いの塩梅もわかってくる。

すると、同じ山を登っていると思ってきた人たちとの間にも、明確な違いがあることに気づくようになった。つまるところ、自分と同じ山を登ってる人は、自分だけなのだ。この発見は、孤独や孤高というほどロマンチックじゃなかった。うすうす気づいてたけど、やっぱりそうだったのか。そんな、納得に近かった。むしろ今の人生は、山というより海なのかもしれない。浅い深いはあるけれど、高い低いはないからだ。

たぶん人生には、山ステージもあれば、海ステージもあるのだ。砂漠面もあれば、闇世界だってあるのだろう。それはまるでゲームのように。

烏賊のゾートロープ

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新しいカメラが欲しい。そう思っていたら、友人が愛用していたCanonEOS 5D Mk2を譲ってくれることになった。ありがたいことだ。8年の使用に耐え、チェルノブイリにすら行ったらしいそのカメラは、其処此処に古傷があって、自慢できるくらい貫禄がある。機能はもちろん現役で、雰囲気たっぷりの写真がちゃんと撮れる。
 
考えてみれば、父や母が、子供の僕を撮ってくれた写真は、どれも35mmのフィルムカメラだった。だからフルサイズのセンサーで撮った写真は、フィルターなんかかけなくても、正方形に切り取らなくても、中年の情緒を揺さぶってくる。
 
新しい古いカメラを持って、佐賀を旅した。7年前に買った、安い50mmのレンズしか持ってなかったから、広い景色が撮れず、妻ばかり撮っていた。そんななかで上の写真は例外的な一枚だ。実際はこんな風に回転していた。まるでゾートロープのようだった。
 
 

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