仏と私

年を越す前に、CD Prayerについて書いておこうと思う。

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いきなりだが、僕は仏教徒だ。自分で選んだわけではない。家の宗教が仏教だったから、自分も仏教徒になっていた。その自覚を持ったのは、祖母が亡くなった11歳の夏だ。これが自分にとって初めてのお葬式で、死と仏を初めて身近に感じた瞬間であった。その後、祖父に倣って読経をするようになり、現在まで26年も(毎日ではないが)南無阿弥陀仏を唱えている。18歳の時に父が亡くなったから、実家には伝統的な仏壇もある。

我が家の宗派は浄土真宗で、本尊は阿弥陀仏だ。阿弥陀仏は心の大きな仏様で、人々をわけへだてなく極楽へと連れていってくれるらしい。だから無量寿如来とも呼ばれている。現世に光明を届ける仏様なので、図画や立体にするときは、頭や胸の背部に光線や光輪が描かれることが多い。これを光背という。いくつか実例を挙げよう。

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www.kohfukuji.com

光背を持つのは、なにも阿弥陀仏に限らない。奈良の大仏盧舎那仏にもあるし、三十三間堂の千手観音にだってある。仏教はインドから発生したので、ヒンドゥー教でも光輪が使われる。そもそも自然崇拝の時代から、人は光に聖を感じてきたのだ。聖性を表す表現として光線や光輪が使われることに、自分は何も疑問を抱いてこなかった。それが新婚旅行でイタリアを訪れて、百八十度転換することになった。

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上の写真が示すように、ゴシックからルネサンス期に描かれたキリスト教の聖者たちは、もれなくゴールドディスクを装備している。一方で聖者たちは、現代を生きる普通の人間のように描かれている。そのあまりに人為的なゴールドディスクと、あまりに人間的な聖者とのギャップが、光背の特異さを意識させた。よくよく考えてみれば、仏様もヒンドゥーの神様も、常軌を逸した容姿をしている。彼らはどちらかというとウルトラマンっぽい存在だ(奇しくもウルトラマンも光の国の出身)。ウルトラマンが腕からスペシウム光線を出すことに疑問を抱かないように、仏像に光背があることに不思議を感じてこなかったのだ。

さて、この違和感が後押しになって、いつの日か自分は「仏がいるところに光がある」のではなく、「円のあるところに仏がいる」と感じるようになってしまった。蛍光灯を見ても、壁時計を見ても、丸いものに仏を見つけてしまうという、数奇な共起を抱えてしまったのだ。そしてガジェットメイカーである自分は、この奇妙さをもとに、仏を、そしてガジェットを作りたいと思うようになった。

自分にとってガジェットとは、仏具や茶道具と同じで、生活をアートにするための道具だ。プロダクトを擬態したアートではなく、アートへ至るプロダクトとしてガジェットがある。そして仏を作るのであれば、やはり死を無視することはできない。自分と仏の出会いだって、そこに肉親との別れがあったのだから。

仏、円、プロダクト、死・・・。

すると、CDへと思いが至った。CD Prayerの制作当時、僕はシンガポールに住んでいた。自分がシンガポールに住み始めた8年前は、都心にもHMVがあって、洋楽のCDが日本よりずっと安く買えた。それから数年して、状況は一変した。HMVは閉店し、新品のCDを買うのが極めて困難になった。

www.straitstimes.com

今やシンガポールでは、愛好家のいるレコードの方が入手しやすいという、逆転現象が起こっている。一方、80年代生まれの自分にとって、CDこそが青春のメディアであった。煌びやかなディスクに収められた鮮やかな音楽を、朝な夕なと聴き続けて育ってきた。聞けば聞くほど、集めれば集めるほど、功徳を積んでるような気もしていた。それにCDは、以前のメディアと比べて、圧倒的に便利だった。テープのように劣化しないし、レコードのように手間がいらない。だけど、その利便性が仇となった。より効率的なmp3やSpotifyの登場によって、CDは時代から駆逐されてしまったのである。

こうして音楽CDは、彼岸へと旅立とうとしている。今、仏を作るのであれば、CDのためをおいて他はないだろう。それにCDは再生する(Play)もの、仏様は祈る(Pray)もの。そして日本人は、LとRの発音が分けられない。そこに並ならぬ縁を感じてしまった。これがCD Prayerを作った経緯である。深澤直人氏のCDプレイヤーとの違いは、盤面の向きだけではない。

www.muji.net

CD Prayerそのものは、Thingiverseで発見した仏像の3Dデータ(Yahoo Japan製)を改変し、市販されているCDウォークマンをハックして作った。そして改変した仏像のデータは、同様にThingiverseで公開している。

www.thingiverse.com

これは浄土真宗が説く「往還回向由他力」と、音楽文化やCreative Commonsにおける「TributeとRespect」や「SamplingとRemix」との間に、改めて縁を感じたためだ。

その後、CD Prayerは2018年に4度の展示に恵まれた。最初はMedia Ambition Tokyo 2018で、六本木ヒルズの展望台という一等地に5体を飾ってもらった。当初は無音で展示していたが、そのせいで来場者は困惑気味だった。すると同じ出展者の久野ギルさんが助け舟を出してくれた。なんとギルさんらSix Strings Sonics, TheのCDを再生させてもらえることになったのだ。まさに地獄に仏だった。

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2度目の展示は、シンガポールのギャラリー・Supernomalで行った。ギャラリー主宰・Binの計らいで、大好きなシンガポールのアーティスト・SonicbratらのCDを用意してもらった。そしてCDショップの視聴機のように、1台ずつヘッドフォンで聞けるように店頭に並べてもらった。

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3度目となる大垣のMaker Faireでは、実家に眠る父と僕のCDをプレイした。そして4度目のSIGGRAPH Asia 2018 Art Galleryでは、Facebookの投稿に応じてくれた5組のアーティスト(もるもっとMutronTO ensembleSatellite Young宮下芳明(挙手順・敬称略))のCDを、再び視聴機形式でプレイさせてもらった。

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SIGGRAPH AsiaにおいてCD Prayerは、図らずもナムジュン・パイクCandle TVの横に飾られることになった。言わずもがなパイクは、ビデオアートとメディアアートの先駆者だ。その彼の代表作に、仏像とテレビを対峙させた「TV Buddha」という作品がある。

medium.com

そんな名作を彷彿とさせる状況が、Candle TVとCD Prayerとの間に生まれてしまった。これはキュレーターの計らいによるものだが、自分には仏縁としか言いようがない。

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CDに仏を見出すと、その後、様々なメディアにも仏が見えてくるようになった。壊れたハードディスクにも、遊び親しんだゲーム機にも。去りゆくメディアはCDだけじゃない。技術は日進月歩であり、インターネットですら盛者必衰からは逃れられないのだ。

だとすれば。

だからこそ。

自分はこれからもMedia Prayerとしての仏を作り続けたいと思う。なんといっても僕は円空と同郷なんだから。円空から円満へ。仏で円を満たしていこう。

www.kankou-gifu.jp