既視感と模倣

大阪万博2025のロゴが決まった。東京オリンピック2020のエンブレム(佐野案)と異なり、SNS上では概ね好意的に受け止められている。なぜだろうか。

大阪万博2025のロゴをみて、自分は「村上隆だ」と思った。Twitterを見ると、「コロシテっぽい」と言う人、「ムックっぽい」と言う人、「キャラメルコーンっぽい」と言う人、それこそ人の数だけ「・・・っぽさ」が発見されている。つまり万博2025のロゴは、我々にとって理解しやすく、既視感があるものなのだと思う。だからこそ、こんなにもイジられる。

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一方、東京オリンピック2020のエンブレム(佐野案)があげつらわれたのは、デザインの模倣である。佐野案と類似するロゴが外国に存在し、かつ佐野の過去作での模倣や剽窃が発掘されたため、採択されたエンブレムを取り下げる事態となった。

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既視感と模倣の間には厳然とした差異がある、と思いたい。しかし現実での境界は曖昧だ。自分は若い頃に、倉木麻衣宇多田ヒカルのパクリ、矢井田瞳椎名林檎のパクリ、みたいな言葉を良く耳にした。それらの多くは事実ではなく、ただの中傷でしかないのだが、「っぽさ」には「パクリ」と誹られる危うさが、否が応でも付き纏う。パイオニアじゃないのは確かだし、他者に真実なぞ知りようがないのだから。

しかし万博2025ロゴには、その危うさが見られない。それはたぶん、既成のアレンジではなく、越境のチャレンジがあるからだと思う。ナショナルイベントのロゴとしてありえなかった異形を持ち出したことが、ポジティブに働いているのだろう。アニメのキャラクターであれば、one of themのクリーチャーとして埋没したと思う。

いずれにせよ、こうしたチャレンジを可能にしているのは、一にも二にも、太陽の塔があるからだ。近代 vs 原始の構図は、令和になっても輝きを持って生きている。そして今回も、進歩や調和が負けて、野蛮が勝ってしまうのだろう。