忘れたこと、忘れられないこと

昨年の春から作ってきた玩具をのアウトリーチに力を注いでいる。例えば他の学校で使ってもらったり、企業と一緒に開発したり。どれも新しい経験だから、大変なことも多いけど、頼りになる仲間もいるし、楽しみながら何とかやれている。その一環で、来週から開催される東京ゲームショーに、ニンジャトラックとそのゲーム「ReelBlade」*1を展示することになった。早いもので、ニンジャトラックを発明してから、もう4年になる。まさかこんなに長くシンガポールににいるとは、住み始めた頃には考えもしなかった。まして学生の時分には。

そんな学生の頃の記憶を、今にして思い返そうとしても、瑣末なことしか浮かび上がって来ない。よく昼にラーメンを食べてから登校してたとか、退屈になると研究と関係ない本を濫読していたりとか。稼ぎも無いのによく飲んでいたが、覚えているのは記憶をなくした記憶だけ。仔細にわたって話せるのは、いまでも続く悪癖のようなものばかりで、大半の記憶は模糊として焦点があわない。もっとも、毎日が平日で休日のような暮らしだったから、そのとき過ごした時間は、十分に脳を刺激しなかったのだろう。

それでも忘れられないのは、2009年5月のこと。大学院のフォーマル発表の日のことだ。博士になるには、通常、幾つかのハードルを乗り越えなければならない。僕が学位を取得したSFCの場合、フォーマル、公聴会、最終試験、という3度の口頭試験があった。その都度、学生は研究成果の報告を行うのだが、質疑応答の時間は毎度地獄だった。将棋を始めて2-3年の子供相手に、将棋人生30年のプロ棋士が全力でむかってくる感じ、と言えばわかってもらえるだろうか。学位取得条件を早めに揃えた自負もあり、毎日遅くまで論文を読み込んで理論武装をしてきただけに、専攻の教授陣からフルボッコにされたときは、悔しくて涙が止まらなかった。試験はかろうじて通過したものの、これまでの努力が水泡に帰した気がして、泣きながら教室をあとにした。そして、しばらくずっと、大学院棟でメソメソしていた。

夕方、気持ちを落ち着けようと、新鮮な空気を吸いに院棟の外に出た。ベンチに座って、何度も深呼吸をしたが、ちっとも気は晴れなかった。思いつめた表情で、これからどうしようかと考えていた。大学院を中退する?・・・それは嫌だ・・・でも、どうしたらいい?・・・わからない・・・。思いは巡るばかりで、解決の糸口が見つからない。そんな僕を見るに見かねたのか、たまたま通りがかったお爺さんが、不意に話しかけてきた。


「浮かない表情だね」


その優しさに堰が切られた僕は、思わず今日の一部始終を吐露してしまった。するとお爺さんは、しっかりとした口調で、こう言った。


「君は科学主義の亡霊に取り憑かれているね」


「私はこの大学で長く働いてきたし、君の玩具も聞いたことがある。そんな君が、科学や工学の言葉だけで、自分の研究を語る必要はないんじゃないか」


「世の中には科学より大きいものがある。それは学問だよ。人類が築き上げた知識と知恵の全部を使って、君のやってきたことを包摂してあげなさい」


そう言うと、お爺さんは帰路へと足を進めた。僕はお礼を言い、そして非礼を承知で名前を伺った。氏は深谷昌弘教授、SFCでソシオセマンティクスという新しい学問を創業した、偉大な先生だった*2