研究所で勤務していると、普段はあまり学生との接点がない。学会や展示などにでかけて、ようやく彼らと話す機会がある。自分はもう36歳なので、修士の学生とも干支で一回り以上も違う。自分の研究や作品を堂々と発表する彼らを見ると、エネルギッシュだなぁ、クレバーだなぁ、と素朴に感動してしまう。
一方で、こうしたイベントに現れる学生は、氷山の一角に過ぎないということも知っている。多くの学生たちは、大学院で悶々としながら、うだつの上がらない日々を送っているのだろう。そうした想像がつくのは、自分がそういう学生だったからだ。
サボってるわけではない。むしろ頑張っている。でもパッとしない。一方で、同級生が偉い人に認められたり、金回りが良くなったりして、賑やかに暮らしている。そんな彼らがうまくいってる理由が、ちっとも理解できない*1。彼らへの妬みなのか、自分への僻みなのか、心は鬱屈した思いで溢れていた。
そんな頃に、僕はよくThe Smithsの曲を聴いていた。きっかけは、社会人を経て大学院にやってきた年上の友人が、スミスの熱心なファンだったから。最初は歌謡曲みたいで苦手だったけど、歌詞を読むようになってハマった。たとえばこんな感じだ。
【意訳】就活して、やっと仕事が見つかった。でも情けないよね。僕の人生なんか気にも止めない連中のために、貴重な時間を使うんだから。
スミスの歌詞は、自分のモヤモヤとした気持ちを、わかりやすい言葉で代弁してくれた。世の中には自分と同じような人がいる。それがわかると、少しだけ心にゆとりがでてきて、何かをする気力も湧いてきた。その気力で何をしたかというと、書写だ。興味を惹く本を図書館で見つけては、気になる箇所をノートに書き写していた。
えてして優秀な人は、最初から優秀だったわけではなく、それなりの資本をかけて優秀になるわけだ。金持ちの子は、親の財布で本が買える。インテリの子は、そもそも家に本がある。早熟の秀才は、奨学金が使える。そうじゃない人は、どうしよう?
ちょうどタイとカンボジアをバックパック旅行した後だった。世界で一番有名なバックパッカーと言えば、三蔵法師だ。彼はインドまで旅をして、ブッダの教えをメモして持ち帰り、現代まで語り継がれるヒーローになった。だったら、その三蔵法師に、自分は倣おうと思った。幸い、インドまで行かなくても図書館には歩いていけるし、誰に見せるわけじゃないから、走り書きで良い。そんなわけで学期中は大学の図書館で、長期休暇は実家の近くの県立図書館で本を借りては、知らなかったことをメモしていった。
これは修士2年の頃、夏期講習のバイトの休憩時間に読んでいた空間学事典のメモだ。建築系の本なので、自分の研究とは直接関係ない内容だ。
母校が総合大学だったのは幸いだった。他の学部からも本が取り寄せられたので、自分の学部の偏った知識を補うことができた。良い本を教えてくれる先生や先輩に恵まれたのも有り難かった。彼らが研究室や作業場に置いた本を、夜のうちにこっそり読ませてもらったりもした。
今にして思えば遠回りなやり方だったかもしれないし、ただの現実逃避だったのかもしれない。修士課程の2年は、あまりに短い。はやる気持ちを感じない日はなかった。だけど、自分の考えた方法で、知らないを知っているに変えていく作業をしている間は、昨日の自分より成長した自分が感じられて、焦燥感から自由でいられた。
こうやって読書と書写を繰り返していると、ある程度のところで本に書いてある知識に飽き、どこか物足りなさを感じるようになった。もっと先が知りたいし、誰もやってないものを作りたいと、強く欲するようになった。これが、自分の中に初めて湧いた、本当の創意だったと思う。自分は面白いものが好きだ。人に喜ばしいものを作ろう、という思いが当然としてある。その上で「誰になんと言われようと、自分が欲しいと思うから、必要だと感じるから作るんだ」という意固地さが生まれた瞬間だ。社会とのズレから生まれた僻みが消えた瞬間でもある。ただ、そこに辿り着いた時には、修士課程も終盤に差し掛かっていた。
【意訳】歌おうよ、自分のことを。誰だってやってるよ。マイクに向かって、名前を言って、好きなこと嫌いなことを歌うんだ。
結局、自分は修士を終えるまで、一度たりとも学会で発表することがなかった。スミスのせいで就職への意欲も湧かなかった。優秀な後輩がいなかったら、プロジェクトも収束できなかっただろう。僕の修士課程は不完全燃焼で終わった。それでも、ひとつの信念が芽生えたのはよかった。そのおかげで、今でも創作が続けられているのだから。
*1:いや、理解はできた。彼らは社会が求めるものを生み出していた。だけどそれは、自分が面白いと思うものから、遠く離れていた。つまり当時の自分は、自分と社会とのズレに、腑に落ちなさを感じていたのだ。まるで「日陰者」の烙印を押されたような気がしていた。